EXHIBITION 003
シストルム
神々に響く、古代エジプトの楽器

神殿に響いた、失われた音
古代エジプトの神殿に足を踏み入れたとき、そこにはどのような音が響いていたのだろう。
神々に捧げられる祈りの言葉。祭礼に集まった人々の声。そして、儀式の進行に合わせて鳴らされる楽器の音。
巨大な神殿や王の彫像は、数千年を経た今も私たちの目の前に残されている。しかし、そこで奏でられた音楽そのものを聞くことはできない。
その失われた音の世界を知る手がかりのひとつが、「シストルム」と呼ばれる楽器である。シストルムは、古代エジプトの宗教儀礼で重要な役割を果たした打楽器だ。手に持って振ると金属の部品が触れ合い、独特の響きを生み出す。
一見すると簡素な道具だが、そこには神々への祈りや、古代エジプトの人々が音に託した特別な意味が込められていた。今回の展示では、この小さな楽器を入り口として、古代エジプトの信仰と音楽の世界を訪ねてみたい。
音を鳴らす神聖な道具
振ることで生まれる音
シストルムは、持ち手の上に枠を備え、その内側に取り付けられた棒や金属片を振動させて音を出す楽器である。現代の楽器に例えるなら、鈴やラトルに近い仕組みを持っている。ただし、音を鳴らす目的は、演奏を楽しむことだけではなかった。
古代エジプトでは、神殿の儀式や神々の前に進み出る場面でシストルムが振られた。一定のリズムを刻むその音は、神聖な空間を形づくる一部だったのである。
シストルムには、大きく分けて二つの代表的な形が知られている。ひとつは、持ち手の上に小さな祠のような構造を備えたナオス型。もうひとつは、上部が弓なりの枠になったアーチ型である。
ナオス型は古王国時代から知られ、アーチ型は新王国時代の第18王朝以降に現れる。長い歴史の中で形を変えながらも、シストルムは古代エジプトの宗教文化に受け継がれていった。
王の名が刻まれたシストルム
ニューヨークのメトロポリタン美術館には、古王国第6王朝のテティ王の名を刻んだシストルムが所蔵されている。

紀元前23世紀ごろのこの作品は、植物の茎を思わせる優美な持ち手と、小さな祠をかたどった上部を持つ。碑文には王の称号とともに、女神ハトホルへの信仰が表されている。
現在は音を出すための部品の一部が失われているが、かつて金属製の棒が取り付けられていた痕跡が残されている。トラバーチン(エジプト・アラバスター)という石で作られていながら、銅の棒を備えて実際に音を鳴らしていた可能性がある。
それは、単に神聖な形を模した飾りではなく、実際に音を生み出す仕組みを備えた道具だったことをうかがわせる。
数千年前の王の名と、かつて響いたであろう金属音。シストルムは、古代エジプトの信仰を目で見るだけでなく、音として想像させてくれる遺物なのである。
女神ハトホルと音楽
音楽と喜びを司る女神
シストルムと特に深い関係を持つのが、女神ハトホルである。
ハトホルは、愛情、喜び、音楽、舞踊などと結びつく女神として広く崇拝された。牛の姿や、牛の角の間に太陽円盤を載せた女性の姿で表されることもある。
人々に幸福や豊かさをもたらす一方、エジプト神話には、神の怒りが人間に災いを及ぼす物語も伝えられている。ハトホルは、恐ろしい雌ライオンの姿をとる神格とも結びつけられた。
こうした神話の世界で、シストルムの音には、女神の怒りを鎮め、喜びをもたらす意味があったと考えられている。音楽は神をたたえるだけでなく、神と人間の関係を穏やかに保つための行為でもあった。
パピルスの葉擦れを思わせる音
シストルムの響きは、風に揺れるパピルスの茎や葉の音とも結びつけられていた。
パピルスはナイル川の湿地に育つ植物であり、古代エジプトの暮らしや神話に深く関わっている。神話では、幼いホルス神が湿地のパピルスの茂みに隠され、守られたとされる。シストルムを振る行為には、こうした神聖な湿地の情景を音によって呼び起こす意味も重ねられていた。
金属の触れ合う音から、川辺の植物が揺れる様子を思い描く。自然の音と神話、そして宗教儀礼がひとつにつながっていたのである。
楽器の形が神殿の柱になる
ハトホルとシストルムの結びつきは、楽器だけにとどまらなかった。
エジプトの神殿には、女神の顔をかたどった装飾を柱頭に備える、ハトホル柱と呼ばれる柱がある。その意匠にはシストルムの形との共通点が見られ、楽器の象徴性が神殿建築にも取り込まれていた。
特にハトホル信仰の中心地として知られるデンデラの神殿では、女神の顔を表した壮麗な柱を見ることができる。
手の中で振られていた小さな楽器の形が、やがて巨大な石の建築へと広がっていく。音は空気の振動として消えてしまう。しかし、その音に込められた意味は、石に刻まれ、長い年月を超えて残されたのである。
古代エジプトの音楽世界
神殿の外にも音楽があった
古代エジプトの音楽は、宗教儀礼だけのものではなかった。宴会や祭り、日々の暮らしの中でも、人々は歌い、踊り、さまざまな楽器を奏でていた。
当時の楽器には、ハープやリュート、リラなどの弦楽器、笛などの管楽器、太鼓や拍子木、シストルムなどの打楽器があった。それらは出土品として残されているだけでなく、墓の壁画や彫刻にも数多く描かれている。
古代エジプトの人々が、音楽を生活の重要な一部としていたことがうかがえる。
壁画に残された演奏会
メトロポリタン美術館には、テーベの墓に描かれた演奏風景を写した模写作品が所蔵されている。
そこには、ハープ、リュート、二本の管を用いる笛、リラを演奏する女性たちと、踊る少女の姿が描かれている。原画は紀元前14世紀ごろの第18王朝時代にさかのぼる。碑文などから、テーベで行われた祭礼に関係する宴の場面だった可能性が指摘されている。
興味深いのは、演奏者たちの姿が静止した記号のようには見えないことだ。楽器を抱え、体を傾け、踊りながら歌う人々。その場に音が満ちていたことを想像させる、生き生きとした表現である。
ただし、壁画から当時の旋律や演奏方法を完全に復元できるわけではない。楽器の形や演奏姿勢がわかっても、どのような曲が奏でられ、どんな響きが好まれていたのかについては、わからない部分が多く残されている。
音は消えても、音楽の記憶は残る
楽器は残る。演奏者の姿も、壁画に残る。けれども、音そのものは残らない。
古代エジプトの音楽を知ろうとするとき、私たちはいつも、この難しさに向き合うことになる。
それでも、シストルムの構造を調べ、ハープの弦が張られていた場所を確かめ、壁画に描かれた演奏者の姿を見ることで、失われた音楽の世界に少しずつ近づくことはできる。
古代の人々にとって音楽は、喜びを分かち合うものであり、神々に祈りを届けるものでもあった。音を鳴らすという行為に、人々は楽しさだけでなく、願いや畏れ、そして神聖な意味を託していたのである。
人の心を動かす音
『大航海時代 Online』には、古代エジプトの王家に伝わる「光のフルート」という財宝が登場する。
優れた演奏者が奏でれば、人の心を惑わせ、争いさえ終わらせるという不思議な楽器だ。
もちろん、これはゲームの物語に登場する伝説的な財宝であり、実在が確認された古代エジプトの遺物ではない。
しかし、音楽に人の心を動かす力を見いだすという発想は、古代の信仰とまったく無関係なものでもない。シストルムの音には、神を喜ばせ、怒りを鎮め、神聖な世界と人間を結びつける意味が込められていた。
数千年前の神殿で響いた音を、私たちがそのまま聞くことはできない。それでも、小さな楽器に残された形や装飾から、当時の人々が何を願い、何を信じていたのかを想像することはできる。
音は消えても、その音に託された祈りは、今も遺物の中に残されている。
