発見物情報
補足
「いがくてんぱん」。イブン・シーナー著の医学書である。アラビア医学の集大成といわれ、ペルシャからヨーロッパにかけて広く学ばれている。
考察
『医学典範』は、11世紀に活躍したペルシア系の学者イブン・スィーナー(980〜1037年)が著した医学書である。原題は『アル=カーヌーン・フィー・アッティッブ』。ヨーロッパでは著者をアヴィセンナと呼び、その著作はラテン語で『カノン・メディキナエ』として知られた。彼は医学だけでなく哲学や自然科学にも通じた博学者であり、その広範な知識が本書の体系的な構成に反映されている。
全五巻からなる本書は、医学の基本原理、薬物、個々の臓器の疾患、全身に関わる病気、複合薬の処方を扱う。第二巻には約800種類の薬物、第五巻には約650種類の複合薬が取り上げられている。古代ギリシャのヒポクラテスやガレノスらの医学を受け継ぎながら、イスラム世界で蓄積された知識を整理し、医師が参照できる一大体系にまとめた点が重要である。
12世紀にはクレモナのジェラルドによってラテン語に翻訳され、西ヨーロッパへ伝わった。その後、大学の医学教育で権威ある教科書として用いられ、17世紀後半まで標準的な教材の一つであり続けた。イスラム世界で編まれた知識が翻訳を通じてヨーロッパの学問を支えた、象徴的な著作でもある。
もっとも、その医学理論には古代以来の体液説など、現在では支持されていない考え方も含まれている。現代医学の正しさを先取りした書物というより、異なる時代と地域の医学知識を結び付け、長期間にわたって学問の共通基盤となったことに歴史的意義がある。『医学典範』は、一人の医師の著作であると同時に、中世ユーラシアを行き交った知の交流を物語る書物なのである。

