補足
15世紀に編纂された、『原初年代記』の写本のひとつ。
原本だけでなく、その後に編纂された書物からも情報が追加されているようだ。
考察
イパーチー写本は、15世紀前半に書き写された、東スラヴ世界の歴史を伝える貴重な年代記写本である。その名称は、後世に写本が見いだされたロシアのコストロマにあるイパーチー修道院に由来する。19世紀初頭、歴史家ニコライ・カラムジンによって知られるようになり、古代ルーシの歴史を研究するうえで重要な史料となった。
この写本の特徴は、『原初年代記』だけを収めたものではないことにある。11世紀から12世紀初頭までの歴史を伝える『原初年代記』に続き、12世紀のキエフを中心とする出来事を記した『キエフ年代記』、さらに13世紀の南西ルーシを扱う『ガリツィア・ヴォルィーニ年代記』が収録されている。こうして、異なる時期や地域で生まれた記録が、一つの年代記として受け継がれた。
そもそも中世の年代記は、著者が最初から最後まで一度に書き上げた歴史書とは限らない。修道院や宮廷などで作られた記録が、後の編纂者によって引用され、書き足され、別の年代記と結びつけられることもあった。イパーチー写本も、そうした複雑な伝承の過程を示している。
また、同じ『原初年代記』を含む写本でも、文章や記録の内容には違いが見られる。写本同士を比較することで、失われた古い記録の姿や、地域ごとに異なる歴史の伝え方を探ることができる。ただし、後世の加筆や年代の整理が必ずしも正確とは限らず、研究には慎重な読み解きが求められる。
イパーチー写本の価値は、単に古い文章を保存したことだけではない。何世代もの編纂者や書写者を経て、異なる地域の記憶が一冊に集められたことにある。そこには、中世の人々が自分たちの過去をどのように理解し、次の時代へ伝えようとしたのか、その営みも残されている。

