EXHIBITION 005
アッシュールバニパルの図書館
知識を集めたアッシリアの王
文字を読む王
紀元前7世紀、メソポタミア北部の都市ニネヴェには、広大な領土を支配する新アッシリア帝国の宮廷が置かれていた。そこで王位に就いたアッシュールバニパルは、戦争や狩猟の姿を宮殿の壁に刻ませる一方、文字を読み、古い文書を理解できることを誇った王でもあった。

写真:Osama Shukir Muhammed Amin / 大英博物館 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
古代メソポタミアの文字は、葦の筆で粘土に刻む楔形文字である。印の形や組み合わせを覚えるだけでなく、言葉の意味、文書の形式、古くから伝わる学問を学ばなければならない。書記になるには長い訓練が必要で、王が自分の読み書きの能力を強調したこと自体、注目に値する。
アッシュールバニパルは碑文の中で、シュメール語やアッカド語の難しい文章を理解し、書記の技術を身につけたと語っている。ただし、これは王が後世に示そうとした理想像でもある。王が実際にどの文書をどこまで独力で読めたかは、碑文の誇らしい言葉だけでは決められない。
王の周囲には、天体の動きや異変を解釈する学者、病に対処する知識を持つ専門家、儀礼を司る人々がいた。彼らの扱う知識は、現代の「科学」「宗教」「政治」のようには分かれていない。日食や夢、動物の振る舞いは、神々からの徴候として王の判断に関わることがあった。
王に仕える学者たちは、過去に記録された徴候とその解釈を参照した。蓄積された文章は、未知の出来事に向き合うための手がかりだった。だからこそ、古い知識を正確に書き写し、手元に置いておくことには大きな意味があった。
知識を持つことは、好奇心を満たすだけではない。何が起こると考えられ、どの儀礼を行うべきかを知ることは、王国を治める仕事と結びついていた。文字を読む王の姿は、学問への関心と権力のあり方が重なり合う、アッシリア宮廷の一面を伝えている。
王が集めた粘土板
アッシュールバニパルの名を有名にしたのは、ニネヴェに集められた膨大な文書群である。占星術や占いの記録、医術や儀礼の手引き、言葉の一覧、神話、文学作品。粘土板には、王が必要とした専門知識だけでなく、メソポタミアで長く受け継がれてきた文章が記されていた。

写真:Zunkir / 大英博物館 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
王の収集活動は、後世の伝説だけではない。バビロンとボルシッパの人々が、粘土板を求めるアッシリア王の指示にどう対応したかを示す文書が残っている。ニネヴェに運び込まれた文書の一覧からは、所有者の名や内容、数量を記録していたこともうかがえる。集めるだけでなく、何を受け取ったのかを把握する作業があったのだ。
文書の中には、別の都市で作られたものもあれば、ニネヴェで書き写されたものもあった。書記たちは手本となる粘土板や筆記板を参照し、文章を写し、照合した。書き終えた粘土板には、王の所有物であることを示す言葉が記される場合もあった。今日の蔵書印に似て見えるが、それは王の権威を示す印でもある。
文字を書く道具は粘土板だけではなかった。木製の板に蝋を塗って文字を記す方法も使われていたが、こうした素材は粘土ほど残りやすくない。現存する粘土板だけで、当時の文書のすべてを数えられるわけではないのである。
もっとも、「アッシュールバニパルの図書館」という呼び名から、一棟の建物に棚が整然と並んでいた姿を想像するのは早計だ。出土した文書は宮殿や神殿に関係する複数の場所から見つかっている。どこまでが図書館で、どこからが別の文書保管の場だったのか、研究は続いている。
現在、大英博物館がこの名称で扱う資料は、粘土板とその破片を合わせて約3万2,000点に及ぶ。これは「3万2,000冊の本」が並んでいたという意味ではない。砕けた破片をつなぎ、同じ文章の別の写しと比べる作業を経て、ようやく一つの文書の姿が見えてくるのである。
ギルガメシュの物語
その文書群の中には、王の治世よりはるか以前から語り継がれていた物語も含まれていた。代表的なものが『ギルガメシュ叙事詩』である。主人公は古代都市ウルクの伝説的な王ギルガメシュ。友エンキドゥとの出会いと冒険、そして友の死を経て、彼は人間が避けられない死の問題に向き合う。
ギルガメシュの物語は、アッシュールバニパルが創作したものではない。シュメール語の個別の物語や、古い時代のアッカド語の叙事詩を背景に、長い年月をかけて伝えられてきた。ニネヴェで見つかった粘土板は、その伝承が紀元前7世紀にも書き写され、読まれていたことを示す重要な証拠となっている。
とりわけ知られているのが、第11の粘土板に記された大洪水の物語だ。ギルガメシュが出会うウトナピシュティムは、神々が起こした洪水を船によって生き延びた人物として語られる。鳥を放って水が引いたかを確かめる場面などは、後世の別の洪水伝承とも比較されてきた。ただし、物語が似ていることと、出来事が史実として起きたことは別の問題である。

写真:BabelStone / 大英博物館 / Wikimedia Commons / CC0 1.0
この粘土板が図書館の展示にふさわしいのは、物語の筋だけが理由ではない。王が集めた文書の中に、占いや儀礼の手引きと並んで、人間の生と死を問う文学が残されていたからだ。古い物語を保存する意図がどこまであったのかは断定できない。それでも、書記たちが文章を写し続けたことで、遠い時代の声が途切れずに伝わった。
ニネヴェの粘土板がなければ、私たちが知る叙事詩の姿は大きく違っていただろう。図書館の価値は、王の権力を支える知識だけでなく、王の時代を超えて読まれる物語がそこに含まれていたことにもある。
帝国の滅亡と図書館の再発見
アッシュールバニパルの死後、帝国の支配は揺らぎ、紀元前612年に首都ニネヴェはバビロニアとメディアの軍勢によって陥落した。宮殿は破壊され、建物の一部は焼け落ちた。かつて王が集めた文書も、床に落ち、砕け、瓦礫や土の下に埋もれていった。
粘土板は丈夫な石碑とは違い、衝撃で容易に割れる。一方、土の中で長く残ることもある。火災によって焼き固められた資料もあったと考えられるが、すべてが炎によって保存されたわけではない。文書が失われたものもあれば、破片となって生き残ったものもある。私たちが見るのは、偶然と破壊をくぐり抜けた記録の一部にすぎない。
19世紀になると、現在のイラク北部にあるニネヴェの遺跡で発掘が進んだ。オースティン・ヘンリー・レヤードらによる南西宮殿の調査、ホルムズド・ラッサムによる北宮殿の発掘から、膨大な粘土板が見つかった。発見は華々しかったが、粘土板を運び、整理し、破片を接合し、楔形文字を読み解く仕事は、その後も長く続いた。
1872年、大英博物館で粘土板を調べていたジョージ・スミスは、ギルガメシュ叙事詩に含まれる洪水の物語を読み解き、研究者たちに報告した。古代メソポタミアにも洪水を語る文学があったことは、大きな反響を呼んだ。王の文書収集からおよそ二千五百年を経て、粘土板は再び人々に読まれ始めたのである。

出典:Morris Jastrow, The Civilization of Babylonia and Assyria (1915) / Wikimedia Commons / Public Domain
ただし、発掘された資料を現代の研究者が読めることと、当時の図書館の全貌が分かったことは同じではない。破片の接合や文書の分類、出土状況の検討は現在も続いている。「図書館」という言葉の内側には、まだ解けていない問いが数多く残されている。
アッシュールバニパルが集めた知識は、まず王の時代のためにあった。しかし帝国が滅び、宮殿が土に埋もれたあと、その粘土板は別の役割を持つようになった。王が手元に置こうとした言葉が、今度は私たちに、失われた文明の考え方や物語を教えている。
参考資料
- 大英博物館 Ashurbanipal Library Project|What is the Library?
- Grant Frame / A. R. George|The Royal Libraries of Nineveh: New Evidence for King Ashurbanipal’s Tablet Collecting
- Reading the Library of Ashurbanipal|Assembling the Library
- 大英博物館|The Flood Tablet(K.3375)
- Ashurbanipal Library Project|Which tablets are which
